あ、私の飼い主を紹介しよう。
あ、私の飼い主を紹介しよう。
飼い主は名を「囚人A」という。
飼育されている私は「看守B」という名だ。君の名は「タイピストのY子」でいいか。
そう、飼い主の書く「此の小説」は未だ視界不良で、それは「テクストの美学」と共に宙吊りにされている。
そうそう、太宰治からの書簡は、あまりにも透明で透明で、それはそれは、彼が情死した河よりも。
「君、小説を書きなさい」ときた。
私は「それでは太宰さんに成ってしまいます」と返信した。
その文は滑稽な冗談としても、私から太宰への賛美としても機能する。
ああ、いつの時代も欧羅巴詩人は神学や神話を引き合いに恋愛詩を書いている。
それは哀詩「エヴァンジェリン」だけで充分だろう。
現代、一般恋愛小説のテクストは勘違いの愛に毒され、皆それに気付かず、生温い痴情を描写し謳歌する。
其の癖、オーシュ卿の「眼球譚」やキャシー・アッカーの「血みどろ臓物ハイスクール」を拒絶する。それらの本質は道化小説だし、勘違いの愛が道化を拒絶する、その状況自体がコメディだ。
あああ、魚に蹴られて目が覚めた。
一度も逆らったことはない。
私は、青い目をした魚達に判決を受け、この人間拘置所に満潮時に投獄された。
満潮時はエメラルド色に染められた海水が、鉄格子型に切り取られる。
初日、初めて見た海。
もう人間は罪を犯さなければ海を見られない。海岸は全て、足の有る魚の支配下にある。全ての人間は山に逃げ込むしかなかった。
かくして人間の栄光は崩壊した。
もう何日経ったろう。そろそろ拘置所から収容所へ移送されてもおかしくない。
夜に抱かれた海は、深い深い漆黒の顔を見せる。月光は雲に遮られている。
魚の看守に再び蹴られた私は、指示通りに取調室に向かう。
こんな深夜になんなのだ。
「やめてくれ」声帯を震わせたが、虚しく闇に溶けていくだけだった。
一瞬だった。魚は、雲から逃れた月を見上げた。その刹那!私は魚を振り切り、廊下を走り出した!
取調室の前の窓には鉄格子がない!
私は窓硝子を渾身の力で蹴破った!
窓枠を乗り越え、走り出す。
月光へ、月光へ、月光の下の海へ!
陸上に上がった代償として、魚は泳げない。
私は月光に照らし出されたエメラルド色の水平線まで限りなく泳ぎ続ける。
ずっと、水平線の向こうへと。
著・タイピストのY子